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カッターの刃でラジオ

 投稿者:tommy  投稿日:2009年11月 2日(月)18時54分32秒
編集済
   下に書いた「石器時代収音機」のキットに触発され、全部自分で作れないか挑戦してみた。

 原始的なラジオにも最低限必要な「同調」と「検波」を自作できる、とネットで知ったので、この2,3週間、試行錯誤をしていたら、本日、最難関の検波も出来て、完全手作りのラジオが完成した。(ただし、「出力」にはイヤホンでは音量が小さすぎて聞こえないので、コンピュータ用の増幅スピーカーに接続した。それでもかすかな音である)

 検波には「ゲルマニウム・ダイオードを使用せずとも錆びたカッターとシャープペンシルの芯があればできる」とネットに出ていた。そこで、道具箱から運よく錆びたカッターを見つけ、その刃の部分にシャープペンシルの芯を擦りつけ、あちこち動かしていたら、ある場所で米軍放送が聞こえてきた。(私の自宅は米軍放送局のある横田基地から13kmだから、強い電波を受けているためであろう)

 コイルは障子紙の芯に150回程度、銅線を巻いたもの、バリコンは台所にあるアルミホイル2枚(約15cm四方)をそれぞれ別の書類ファイルに入れることで絶縁して、その2枚のアルミホイルを少しずつずらしていくとNHKの第1、第2、そして米軍放送が選局できた。(TBSなど他の局は聴解不能)

 アンテナは電源アンテナも試してみたが、家庭の電話機についているアンテナに接続するのが、一番良かった。かすかな音だが、話の内容は聞きとれる。

 今回のラジオ制作でわざわざ購入したものは一つもなく、コイル、バリコン、そして検波器の3点すべてを家にあった材料で作った。こんなもので、放送が聞けるとは、前回の「石器時代収音機」に増して驚き、またあらためて不思議に思ったものである。 tommy
 

石器時代収音機

 投稿者:tommy  投稿日:2009年10月22日(木)17時39分56秒
編集済
   先週、秋葉原で「石器時代収音機(\450)」という組み立てキットを買った。ゲルマニウムラジオのことだ。中国語なのだが「石器時代」とは思わず笑ってしまったが、「収音機」とは中国語でラジオのことのようだが、実に上手く表現していると思う。アンテナから「音」声信号を「収」める訳だから「収音機」、受信機よりずっと分かりやすい。

 30年代後期、中学生だった私は一人、はるばる秋葉原へ行き、ゲルマニウムラジオ部品を買って組み立てた。それ以来だから、もう半世紀近くの歳月がたったのだが、秋葉原の雰囲気はそれほど変わっていなかった。サラリーマン時代はお茶の水が職場だったのに、隣町の秋葉原に行ったことは一度もなかった。

 ご隠居の身になり、有り余る時間を、昔のラジオ少年に戻ったかのように、電子部品をみてほくそ笑んでいる。ゲルマニウムラジオは、理論的にはゲルマニウムのダイオードとイヤホンがあれば、アンテナとアースをきちんとすると、いろいろな放送が電源なしで聞こえるという驚くべきものだ。さらに、コイルと可変コンデンサを付ければ、NHKなどの放送局を特定して受信できる。

 今回買ったゲルマラジオは多少の付属コンデンサ、抵抗なども付いているが、基本的には上の4つの材料だけである。この投稿も、そのゲルマでNHK第1放送を聞きながら書いているが、十分実用になる。さらにイヤホンの音声をパソコン用のスピーカで増幅すれば、なんら普通の放送と変わらない音質と音量になる。

 素朴な部品の組み合わせを見ながら、どうしてこれで放送が聞けるのか本当に不思議に思う。ラジオの原理は分かっているつもりだが、それでもなぜ、こんなもので聞こえるのか不思議である。森羅万象というのは案外、もとは単純素朴なものなのかも知れない。 tommy
 

外国語学習

 投稿者:tommy  投稿日:2009年10月19日(月)22時47分34秒
   Sobaさんへ:

  「自己植民地化」というキャッチイな言葉を生みだした鈴木孝夫さんという人はユニークな人なのでしょうね。アメリカ人やイギリス人の英語に対する感覚は、やはり圧倒的優位な言語をほぼ母国語として使用している優越性から発生することは確かだと思います。私の立場が彼らと同じならば、やはり同じような感覚をもったと思います。

 若いころ世界漫遊の旅に出たことがあります。横浜から船にのってシベリヤへ、モスクワを経てフィンランドなどスカンジナビアの国々、ドイツ、スイスなどの中央のヨーロッパからパリへそしてロンドンへ、スコットランドへ、またパリにもどり帰国。 そんな旅でしたが、帰国する前、パリのユースホステルで同室の人々と熱く話をしたのを覚えています。そのときアメリカからの学生が「アメリカ人が外国語を勉強しないのは間違っている」と口角泡を飛ばして訴えていました。「英語が世界で通用するので、外国語を学ぶアメリカ人は殆どいない。高校でも外国語を殆ど学ばない。それは間違っている。」と。

 私は彼の「自己」批判に対して同意を表明しましたが、「外国語を学ばないのは、間違っている」というより、「外国語を学ぶ楽しさを知らないのは不幸である」と感じました。当時、私は英語が大好きでした。英語は私の生きがいであり、当時の私の「人生の目的」でもありました。

 今は「人生の目的など特に必要ない」という考えになりました。自分は生まれたから生きているのであり、生きているから生きているのである、ただ、どうせ生きるのなら楽しく、満足の得られる生き方をしたい。」 ひとりよがりともいうべき考えでしょうが、これでいいんじゃないかな、と思っています。今まで、あまりにも教条主義的に生きてきた反動なのかもしれませんね。 tommy
 

「外国語学習の政治性」そして「掛け声」について

 投稿者:soba95  投稿日:2009年10月18日(日)01時25分32秒
  tommyさんの投稿にひとこと。
「「英語を勉強する」ということは、極めて歴史的、経済的、そして政治的な営み」というのはその通りだと思います。先に引用した鈴木孝夫の「日本人はなぜ英語ができないか」によれば、「アメリカ人の方は[日本人とは]まさに正反対で、自分が物事すべての規準であって、相手のもつ異質性をば普遍からの逸脱、不公正なルール違反と見てただちに攻撃に出ます」「[中国では]外国語を学ぶ主な目的が、相手国を知ることよりも、学ぶ自国民に自分たちの国がどんなによい国か、いかに偉大で光輝に満ちた長い歴史をもっているのかなどを自覚させ、それによって自国に対する愛情と誇りをもたせることに向けられている」ということで、それぞれの外国語学習態度の類型を、「日本=自己改造・社会改造」「米国=他者攻撃・折伏制御」「中国=自己顕示・自己宣伝」とまとめています。これらがどこまで当たっているかは別としても、外国語学習に対する態度が国によってかなり異なっていることは間違いないでしょう。
「掛け声・囃し言葉」について。マルクス主義が盛んな頃は、言語の労働起源説も盛んだったようです。今では一時ほどの勢いはないのでしょう。私も、労働起源説はちょっとどうかなと思います。でも、tommyさんの話を読んでいたら、労働だけが起源だとは言えないにしても、なんらかの共同作業(いわゆる労働とはかぎらないとしても)の際の掛け声や囃し言葉が、「同一概念が同一音声とセットになる」ための何らかのきっかけになったことは間違いないような気がしました。
動物に概念があるかどうか分かりませんが、人間がこれほど概念を発達させたのは、人々に共通する音声や形象とリンクしたことが大きいのではないかと思います。個々の人間が概念の萌芽を脳内に胚胎させたとしても、それぞれが勝手な音声で表わしていたら、概念は萌芽にとどまり、いまのような壮大な概念体系を構築することはなかったでしょう。それを考えると、同じ音声が同じ感じや思いを載せているという感覚が、利便なり快感なりをもたらす、という場面が必要だったのではないかと推察します。
 

「辞書引き」そして「等式」について

 投稿者:soba95  投稿日:2009年10月14日(水)10時18分3秒
  ZENさんの投稿にひとこと。
辞書引きについては、自分自身、中学時代は教科書の巻末頼りで、あまり辞書を引いたことはなく、また、教える際も、初級ならあまり辞書を引かせなくてもいいかなと思っています。では、どのくらいのレベルからどのように辞書を引かせるのか、と言われると、初歩(に留まっている)の生徒ばかり教えているので、なんとも言えないのですが。
「英語と日本語は必ずしも等式では結べない」というのは、まったくその通りで、生涯学習の英語講座に来る生徒さんでも、日本語の単語と英語の単語が「一対一対応」しているかのように感じている方がとても多いです。それで、私の講座では、動詞活用など基本的な文法を身につけることと並んで、「日英語の一対一対応」という観念を崩すことに力を入れています(成果はあまり上がってないかもしれませんが)。日本の英語学習の大きな問題のひとつと考えていますが、日本人の他の外国語の学習者あるいは他の国の外国語学習者のあいだでも初歩のレベルでは普通に見られることなんでしょうか。どなたか教えていただけると幸いです。
辞書の話に関連づけて言うと、講座では英語の勉強が好きな生徒さんが多いので、辞書を引くことを嫌がる方はあまりいないようですが、辞書を引いても「訳語」しか見ていないような気がします。というのも、講座で動詞型の勉強をするのですが、「辞書に動詞型の情報が書いてあることを初めて知りました」という方がけっこういるのと、辞書から動詞型情報を読み取る練習をしてもなかなか読み取れるようにならない方も少なくないのです。辞書を引いても、中身を読んでいない、ということでしょうか。
英語(に限らず外国語)の学習は独学独習が基本(その言語が身近で使われてない場合)と
考えていますが、だとすると辞書は必須ツールです。でもこのツールは諸刃の剣になりやすい、扱いの難しいツールだと感じています。
 

最近の中学英語に驚き

 投稿者:ZEN@北海道  投稿日:2009年10月13日(火)21時49分47秒
  いまの中学校の英語の授業を見ていていちばん驚いたのは辞書(英和辞典)を使わないということです。
教科書に出てくる単語は巻末にまとめて載っていますが、内容がイージーでお粗末。
授業でも辞書を使わないし、そもそも辞書を持っていない子もいます。
ぼくらが中学校くらいのときはボロボロになるくらい辞書を引けといわれて育ちましたが時代は変わったものです。
教科書にはHe play tennis の playの意味を「〜する」としていて、英語の勉強を見てやったある子は安易に英語のplay=日本語の「〜する」という等式で覚えていました。
英語と日本語はかならずしも等式(イコール)ではむすべませんよね。
テニスをする、野球をする、という場合はたしかにplayを「する」と訳せますが、勉強する、仕事をするはplayではない、必ずしもplay=するとは訳せないので辞書を引いて意味を調べてみようと言うと、辞書の引き方、見方がわかってないのに驚きました。
その子にplayを引かせて、スポーツやゲームをする、楽器を弾く、演じるという意味を確認させ、辞書には活用、語形変化、熟語、慣用表現なども書いてあり、辞書の例文をしっかり読み込むといろいろ使い方がわかるということを教えたのですが、そもそも日本語のある単語と英語のある単語は意味領域の一部が一致するとしても完全な等式では結べないということを理解していない。
たとえば前置詞のonを日本語では「上」と安直に覚えてしまっている子がいます。
回路図でスイッチのon offを考えればわかるようにonは接触しているという意味が重要で、テーブルの上にハエが止まっている(テーブルと接触している)のならon the tableでもいいけどテーブルの上をハエが飛び回っているのならonではなくaboveなりoverになるということ、日本語と英語は必ずしも等式で結べないということを理解していなかったりします。

http://homepage3.nifty.com/zen1999/index.htm

 

「アイタタ アイタ」 

 投稿者:tommy  投稿日:2009年10月12日(月)20時23分56秒
編集済
   Sobaさんの投稿で「自己植民地化」を面白く読ませていただきました。「生涯学習を享受する生徒さんに敷衍したのはこちらの勝手です」ということですが、確かに私も英語教師を長くやっていましたので、少年少女の段階でもそういう風潮があることは感じていました。

 でも、まさに日本はそれを国を豊かにする「道具」として利用してきたのかも知れませんね。中世から江戸時代までは中国や韓国を文化宗主国として、明治からは欧州を、そして、太平洋戦争後はアメリカを、という風に、数か月前の民主党誕生前まで、対米従属を日本は国是として推進(あるいは受け入れ)してきました。

 「英語を勉強する」ということは極めて歴史的、経済的、そして政治的な営みだと思います。そして、日本の英語勉強は、北海道のZENさんがおっしゃるように、「アジアの多くの国々の人々は、生きるため、仕事のため、生活のために必死で外国語を学び覚えている。それに比べて日本ではなんのために外国語を学ぶのかという切迫した理由がなく、なんとなく教室に通っている。」のが事実で、言ってみれば、ずいぶん「お気楽」な勉強です。もし切迫した必要な資料が必要だとしても、それはよほど先進的なものでない限り、日本語に翻訳され提供されているので、べつに英語で読む必要なないのが現状だと思います。それでも「英語をやる」というのは実用以上の必要性、つまり、Sobaさんの言う「生涯学習を享受する生徒」の世界なのではないでしょうか。それ自体には問題はないでしょう。でも、ちょっと掠っただけで、英語学習をムードで済ましている人に対しての、教師側のいらだちは良く理解できます。教師は必至で勉強してきたのに「少しは(生徒も)自分でも苦労しろよ!」と叫びたくなりますね。

 今日は、私は日本語ヘルプをしているロシア青年のスピーチコンテストに向けた特訓を自宅でしました。次の日曜日、約20名が出場して競い合う八王子市の日本語スピーチコンテストがあります。それに出場するのですが、まだ、彼は原稿を覚えられずにいますし、内容も「村上春樹に魅せられたボク」というかなり重いもので、私としては頭痛の種になっています。どうなることになりますやら。 客席でドキドキしながらも、とにかく平常心で臨みたいと思います。彼が春樹に魅せられた最大の理由は「羊男」という主人公自身の別働隊であるキャラクターが主人公に言う次の言葉です:
 「踊るんだ、踊り続けるんだ。なぜ、踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんて、もともとないんだ。」
大学で自分の勉強を続けていくべきか悩んでいるときに、友人から貰った本の中で、出会った言葉で。ずいぶん自分の進路に影響を受けたそうです。それ以降、ロシアで翻訳出版されている春樹の作品11冊を全て読破した、そうです。そんなことを中心に4分間の演説をします。どうなることでしょうか? 来週には結果が分かるので、この掲示板に発表します。

 特訓のあと、ロシア民謡をラジカセで掛けながらビールと日本酒で酒盛りをしていると、「ボルガの舟歌」が掛かりました。 例の「アイタタ アイタ、アイタタ アイタ」という日本語みたいな歌詞がありますね。それで、ロシア青年に「何という意味か?」と尋ねたところ、「これには意味はなく、船を漕ぐときの掛け声です」とのことでした。では、これは、「ヤーレンソーランソーラン、、、ドッコイショ ドッコイショ」と同じなのかな? 英語には「Old MacDonald had a farm, E-I-E-I-O」 なんて囃し言葉がありますし、韓国語では「エイ ヘイヤー、エイ ヘイヤー」なんて囃しもあります。人間にはなんか拍子をとってみんなで同じ動作をするときに掛ける、囃しことばがあるのですね。世界の囃し言葉を集めてみたら面白いでしょう。きっと、人類共通のルールがあるのかも知れません。

 では、みなさん、秋も深まります(カウリ キッポカムニダ)ね。読書の秋、食欲の秋、空は真っ青です。「天高く、馬肥ゆる秋」敵の襲来にも気をつけながら秋を満喫してください。 tommy
 

モチベーションというか

 投稿者:ZEN@北海道  投稿日:2009年10月12日(月)19時17分24秒
  アジアの多くの国々の人々は英語や時には日本語もじょうずに話す人々がいます
彼らは生きるため、仕事のため、生活のために必死で外国語を学び覚えています
それに比べて日本ではなんのために外国語を学ぶのかという切迫した理由がなく、なんとなく教室に通っているからではないでしょうか?
経済的な理由、生きるためばかりでなく、自分自身の人生を豊かにするため、外国人の友人をたくさん作って交流したい、外国旅行をしたい、のでもいいのですけれど・・・

http://homepage3.nifty.com/zen1999/index.htm

 

英語の生涯学習と「自己植民地化」

 投稿者:soba95  投稿日:2009年10月12日(月)10時46分52秒
  私は十数年前から成人向けの英語の講座で教える機会があります。生徒さんは概ね熱心で、夕食後あるいは夏の暑い午後ゆっくりTVでも見ていたいような時間にわざわざ出かけて勉強しようという意欲に溢れた方々ばかりです。そんな意欲的な生徒さんですが、教え始めた頃、私は何か違和感のようなものを感じました。私の講座にくる生徒さんの多くは、be動詞と一般動詞の区別もきちんとつきません。それで、「これは基本で、これができないと後が伸びないですよ」と言って、基本が身につくようなトレーニングを取り入れ家庭でも練習してもらうような授業をします。けれども、熱心に通って熱心に授業は受けても、この基本が少しは身についたという生徒さんは(通年講座でも)滅多にいないのです。この生徒さんたちに「英語ができるようになりたいですか」と聞けば「はい」と答えるでしょう。1人や2人ではなく多くの生徒さんがそんな状態に安住しているのは何故なのでしょうか。
「英語の勉強をしている」状態が好きなのか。英語を使って何か価値があることをしたいというわけではなく、英語を習っていること自体が価値なのか(お茶やお華ならそれもありでしょうが)。英語を使って何かを生み出すのではなく、「英語講座というサービス」を享受する「消費者」だからか。ふと「植民地」という言葉が浮かびました。宗主国の言語だから、なんとなく関わっているだけでもありがたいのかな、と。でも本当の植民地なら、宗主国の言語の習得にはもっと切迫感があるはずです。そんなとき慶大の鈴木孝夫教授の「自己植民地化」という言葉に出会いました。
鈴木教授は「日本人は、自分が選んだ文化宗主国をモデルとして、自分たちの国を改革し、自分自身を相手のもつ高い水準に合致するよう改造する努力を、遣唐使の昔から最近まで一貫して行ってきた民族なのです。私はこの、外国に征服支配強制された結果として外国文化を受け入れるのではなく、自発的に自分を外国のように作り変える現象を、自己植民地化(auto-colonization)と名づけました。現実には植民地にならないのに、心情的には相手との一体化を望んで、相手国の文化植民地となってしまうのです」(「日本人はなぜ英語ができないか」より)と言っています。なるほど、と思いました。「ちょっと触れるだけでも価値がある。でも必死で身につけなければならないほどの必要性はない」という状況は、文化宗主国+自己植民地化ということで説明できるなあ、と納得したものです(ただし鈴木教授が想定しているのは、政財官・科学技術・学問芸術等のエリート層で、生涯学習を享受する生徒さんに敷衍したのはこちらの勝手です)。
最近は、欧米から学ぼうという風潮も薄れ、自己植民地化も以前ほどではなくなっているかもしれませんが、私の所へくる生徒さんの多くは相変わらず中学の基本もできていません。
 

火起こし (普通の庭石で)

 投稿者:tommy  投稿日:2009年 9月23日(水)21時35分10秒
  今日は、自宅の庭の石を使って火起こしに成功しました。庭にある10センチくらいの石を拾ってきて、それを錆びついた古い鎌で叩いてみると、結構火花が散るので、一昨日作った自家製のぼろ布を燃やして作った火口(ほくち)を今日も再び作り、再度実験してみました。
 庭石の角ばったところの下に、ぼろ布を燃やして作ったの火口(ほくち)を置き、鎌の背をカーンと叩きつけ、火花を火口に落としました。赤い火種ができるや、見る見るうちに火種は大きくなり、さらにフウっと息を吹きかけると、何と!炎を上げて燃えだしたのです。
 これはTシャツのぼろ布を燃やすとき、まだ完全に燃えきっていないのに、面倒なので途中で密閉消火(消し炭にする)して、火口を作ってしまったのが、逆に功を奏したようです。未燃焼部分が燃えだしたのでわざわざ硫黄を塗った付け木を使う必要がありませんでした。
 この実験の意味するところは、特になにも特別なものがなくても「火は簡単に起こせる」ということです。みなさんも是非試してみてください。tommy
 

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