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私は十数年前から成人向けの英語の講座で教える機会があります。生徒さんは概ね熱心で、夕食後あるいは夏の暑い午後ゆっくりTVでも見ていたいような時間にわざわざ出かけて勉強しようという意欲に溢れた方々ばかりです。そんな意欲的な生徒さんですが、教え始めた頃、私は何か違和感のようなものを感じました。私の講座にくる生徒さんの多くは、be動詞と一般動詞の区別もきちんとつきません。それで、「これは基本で、これができないと後が伸びないですよ」と言って、基本が身につくようなトレーニングを取り入れ家庭でも練習してもらうような授業をします。けれども、熱心に通って熱心に授業は受けても、この基本が少しは身についたという生徒さんは(通年講座でも)滅多にいないのです。この生徒さんたちに「英語ができるようになりたいですか」と聞けば「はい」と答えるでしょう。1人や2人ではなく多くの生徒さんがそんな状態に安住しているのは何故なのでしょうか。
「英語の勉強をしている」状態が好きなのか。英語を使って何か価値があることをしたいというわけではなく、英語を習っていること自体が価値なのか(お茶やお華ならそれもありでしょうが)。英語を使って何かを生み出すのではなく、「英語講座というサービス」を享受する「消費者」だからか。ふと「植民地」という言葉が浮かびました。宗主国の言語だから、なんとなく関わっているだけでもありがたいのかな、と。でも本当の植民地なら、宗主国の言語の習得にはもっと切迫感があるはずです。そんなとき慶大の鈴木孝夫教授の「自己植民地化」という言葉に出会いました。
鈴木教授は「日本人は、自分が選んだ文化宗主国をモデルとして、自分たちの国を改革し、自分自身を相手のもつ高い水準に合致するよう改造する努力を、遣唐使の昔から最近まで一貫して行ってきた民族なのです。私はこの、外国に征服支配強制された結果として外国文化を受け入れるのではなく、自発的に自分を外国のように作り変える現象を、自己植民地化(auto-colonization)と名づけました。現実には植民地にならないのに、心情的には相手との一体化を望んで、相手国の文化植民地となってしまうのです」(「日本人はなぜ英語ができないか」より)と言っています。なるほど、と思いました。「ちょっと触れるだけでも価値がある。でも必死で身につけなければならないほどの必要性はない」という状況は、文化宗主国+自己植民地化ということで説明できるなあ、と納得したものです(ただし鈴木教授が想定しているのは、政財官・科学技術・学問芸術等のエリート層で、生涯学習を享受する生徒さんに敷衍したのはこちらの勝手です)。
最近は、欧米から学ぼうという風潮も薄れ、自己植民地化も以前ほどではなくなっているかもしれませんが、私の所へくる生徒さんの多くは相変わらず中学の基本もできていません。
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