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tommyさんの投稿にひとこと。
「「英語を勉強する」ということは、極めて歴史的、経済的、そして政治的な営み」というのはその通りだと思います。先に引用した鈴木孝夫の「日本人はなぜ英語ができないか」によれば、「アメリカ人の方は[日本人とは]まさに正反対で、自分が物事すべての規準であって、相手のもつ異質性をば普遍からの逸脱、不公正なルール違反と見てただちに攻撃に出ます」「[中国では]外国語を学ぶ主な目的が、相手国を知ることよりも、学ぶ自国民に自分たちの国がどんなによい国か、いかに偉大で光輝に満ちた長い歴史をもっているのかなどを自覚させ、それによって自国に対する愛情と誇りをもたせることに向けられている」ということで、それぞれの外国語学習態度の類型を、「日本=自己改造・社会改造」「米国=他者攻撃・折伏制御」「中国=自己顕示・自己宣伝」とまとめています。これらがどこまで当たっているかは別としても、外国語学習に対する態度が国によってかなり異なっていることは間違いないでしょう。
「掛け声・囃し言葉」について。マルクス主義が盛んな頃は、言語の労働起源説も盛んだったようです。今では一時ほどの勢いはないのでしょう。私も、労働起源説はちょっとどうかなと思います。でも、tommyさんの話を読んでいたら、労働だけが起源だとは言えないにしても、なんらかの共同作業(いわゆる労働とはかぎらないとしても)の際の掛け声や囃し言葉が、「同一概念が同一音声とセットになる」ための何らかのきっかけになったことは間違いないような気がしました。
動物に概念があるかどうか分かりませんが、人間がこれほど概念を発達させたのは、人々に共通する音声や形象とリンクしたことが大きいのではないかと思います。個々の人間が概念の萌芽を脳内に胚胎させたとしても、それぞれが勝手な音声で表わしていたら、概念は萌芽にとどまり、いまのような壮大な概念体系を構築することはなかったでしょう。それを考えると、同じ音声が同じ感じや思いを載せているという感覚が、利便なり快感なりをもたらす、という場面が必要だったのではないかと推察します。
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