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最近の中学英語に驚き

 投稿者:ZEN@北海道  投稿日:2009年10月13日(火)21時49分47秒
  いまの中学校の英語の授業を見ていていちばん驚いたのは辞書(英和辞典)を使わないということです。
教科書に出てくる単語は巻末にまとめて載っていますが、内容がイージーでお粗末。
授業でも辞書を使わないし、そもそも辞書を持っていない子もいます。
ぼくらが中学校くらいのときはボロボロになるくらい辞書を引けといわれて育ちましたが時代は変わったものです。
教科書にはHe play tennis の playの意味を「~する」としていて、英語の勉強を見てやったある子は安易に英語のplay=日本語の「~する」という等式で覚えていました。
英語と日本語はかならずしも等式(イコール)ではむすべませんよね。
テニスをする、野球をする、という場合はたしかにplayを「する」と訳せますが、勉強する、仕事をするはplayではない、必ずしもplay=するとは訳せないので辞書を引いて意味を調べてみようと言うと、辞書の引き方、見方がわかってないのに驚きました。
その子にplayを引かせて、スポーツやゲームをする、楽器を弾く、演じるという意味を確認させ、辞書には活用、語形変化、熟語、慣用表現なども書いてあり、辞書の例文をしっかり読み込むといろいろ使い方がわかるということを教えたのですが、そもそも日本語のある単語と英語のある単語は意味領域の一部が一致するとしても完全な等式では結べないということを理解していない。
たとえば前置詞のonを日本語では「上」と安直に覚えてしまっている子がいます。
回路図でスイッチのon offを考えればわかるようにonは接触しているという意味が重要で、テーブルの上にハエが止まっている(テーブルと接触している)のならon the tableでもいいけどテーブルの上をハエが飛び回っているのならonではなくaboveなりoverになるということ、日本語と英語は必ずしも等式で結べないということを理解していなかったりします。

http://homepage3.nifty.com/zen1999/index.htm

 
 

「アイタタ アイタ」 

 投稿者:tommy  投稿日:2009年10月12日(月)20時23分56秒
編集済
   Sobaさんの投稿で「自己植民地化」を面白く読ませていただきました。「生涯学習を享受する生徒さんに敷衍したのはこちらの勝手です」ということですが、確かに私も英語教師を長くやっていましたので、少年少女の段階でもそういう風潮があることは感じていました。

 でも、まさに日本はそれを国を豊かにする「道具」として利用してきたのかも知れませんね。中世から江戸時代までは中国や韓国を文化宗主国として、明治からは欧州を、そして、太平洋戦争後はアメリカを、という風に、数か月前の民主党誕生前まで、対米従属を日本は国是として推進(あるいは受け入れ)してきました。

 「英語を勉強する」ということは極めて歴史的、経済的、そして政治的な営みだと思います。そして、日本の英語勉強は、北海道のZENさんがおっしゃるように、「アジアの多くの国々の人々は、生きるため、仕事のため、生活のために必死で外国語を学び覚えている。それに比べて日本ではなんのために外国語を学ぶのかという切迫した理由がなく、なんとなく教室に通っている。」のが事実で、言ってみれば、ずいぶん「お気楽」な勉強です。もし切迫した必要な資料が必要だとしても、それはよほど先進的なものでない限り、日本語に翻訳され提供されているので、べつに英語で読む必要なないのが現状だと思います。それでも「英語をやる」というのは実用以上の必要性、つまり、Sobaさんの言う「生涯学習を享受する生徒」の世界なのではないでしょうか。それ自体には問題はないでしょう。でも、ちょっと掠っただけで、英語学習をムードで済ましている人に対しての、教師側のいらだちは良く理解できます。教師は必至で勉強してきたのに「少しは(生徒も)自分でも苦労しろよ!」と叫びたくなりますね。

 今日は、私は日本語ヘルプをしているロシア青年のスピーチコンテストに向けた特訓を自宅でしました。次の日曜日、約20名が出場して競い合う八王子市の日本語スピーチコンテストがあります。それに出場するのですが、まだ、彼は原稿を覚えられずにいますし、内容も「村上春樹に魅せられたボク」というかなり重いもので、私としては頭痛の種になっています。どうなることになりますやら。 客席でドキドキしながらも、とにかく平常心で臨みたいと思います。彼が春樹に魅せられた最大の理由は「羊男」という主人公自身の別働隊であるキャラクターが主人公に言う次の言葉です:
 「踊るんだ、踊り続けるんだ。なぜ、踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんて、もともとないんだ。」
大学で自分の勉強を続けていくべきか悩んでいるときに、友人から貰った本の中で、出会った言葉で。ずいぶん自分の進路に影響を受けたそうです。それ以降、ロシアで翻訳出版されている春樹の作品11冊を全て読破した、そうです。そんなことを中心に4分間の演説をします。どうなることでしょうか? 来週には結果が分かるので、この掲示板に発表します。

 特訓のあと、ロシア民謡をラジカセで掛けながらビールと日本酒で酒盛りをしていると、「ボルガの舟歌」が掛かりました。 例の「アイタタ アイタ、アイタタ アイタ」という日本語みたいな歌詞がありますね。それで、ロシア青年に「何という意味か?」と尋ねたところ、「これには意味はなく、船を漕ぐときの掛け声です」とのことでした。では、これは、「ヤーレンソーランソーラン、、、ドッコイショ ドッコイショ」と同じなのかな? 英語には「Old MacDonald had a farm, E-I-E-I-O」 なんて囃し言葉がありますし、韓国語では「エイ ヘイヤー、エイ ヘイヤー」なんて囃しもあります。人間にはなんか拍子をとってみんなで同じ動作をするときに掛ける、囃しことばがあるのですね。世界の囃し言葉を集めてみたら面白いでしょう。きっと、人類共通のルールがあるのかも知れません。

 では、みなさん、秋も深まります(カウリ キッポカムニダ)ね。読書の秋、食欲の秋、空は真っ青です。「天高く、馬肥ゆる秋」敵の襲来にも気をつけながら秋を満喫してください。 tommy
 

モチベーションというか

 投稿者:ZEN@北海道  投稿日:2009年10月12日(月)19時17分24秒
  アジアの多くの国々の人々は英語や時には日本語もじょうずに話す人々がいます
彼らは生きるため、仕事のため、生活のために必死で外国語を学び覚えています
それに比べて日本ではなんのために外国語を学ぶのかという切迫した理由がなく、なんとなく教室に通っているからではないでしょうか?
経済的な理由、生きるためばかりでなく、自分自身の人生を豊かにするため、外国人の友人をたくさん作って交流したい、外国旅行をしたい、のでもいいのですけれど・・・

http://homepage3.nifty.com/zen1999/index.htm

 

英語の生涯学習と「自己植民地化」

 投稿者:soba95  投稿日:2009年10月12日(月)10時46分52秒
  私は十数年前から成人向けの英語の講座で教える機会があります。生徒さんは概ね熱心で、夕食後あるいは夏の暑い午後ゆっくりTVでも見ていたいような時間にわざわざ出かけて勉強しようという意欲に溢れた方々ばかりです。そんな意欲的な生徒さんですが、教え始めた頃、私は何か違和感のようなものを感じました。私の講座にくる生徒さんの多くは、be動詞と一般動詞の区別もきちんとつきません。それで、「これは基本で、これができないと後が伸びないですよ」と言って、基本が身につくようなトレーニングを取り入れ家庭でも練習してもらうような授業をします。けれども、熱心に通って熱心に授業は受けても、この基本が少しは身についたという生徒さんは(通年講座でも)滅多にいないのです。この生徒さんたちに「英語ができるようになりたいですか」と聞けば「はい」と答えるでしょう。1人や2人ではなく多くの生徒さんがそんな状態に安住しているのは何故なのでしょうか。
「英語の勉強をしている」状態が好きなのか。英語を使って何か価値があることをしたいというわけではなく、英語を習っていること自体が価値なのか(お茶やお華ならそれもありでしょうが)。英語を使って何かを生み出すのではなく、「英語講座というサービス」を享受する「消費者」だからか。ふと「植民地」という言葉が浮かびました。宗主国の言語だから、なんとなく関わっているだけでもありがたいのかな、と。でも本当の植民地なら、宗主国の言語の習得にはもっと切迫感があるはずです。そんなとき慶大の鈴木孝夫教授の「自己植民地化」という言葉に出会いました。
鈴木教授は「日本人は、自分が選んだ文化宗主国をモデルとして、自分たちの国を改革し、自分自身を相手のもつ高い水準に合致するよう改造する努力を、遣唐使の昔から最近まで一貫して行ってきた民族なのです。私はこの、外国に征服支配強制された結果として外国文化を受け入れるのではなく、自発的に自分を外国のように作り変える現象を、自己植民地化(auto-colonization)と名づけました。現実には植民地にならないのに、心情的には相手との一体化を望んで、相手国の文化植民地となってしまうのです」(「日本人はなぜ英語ができないか」より)と言っています。なるほど、と思いました。「ちょっと触れるだけでも価値がある。でも必死で身につけなければならないほどの必要性はない」という状況は、文化宗主国+自己植民地化ということで説明できるなあ、と納得したものです(ただし鈴木教授が想定しているのは、政財官・科学技術・学問芸術等のエリート層で、生涯学習を享受する生徒さんに敷衍したのはこちらの勝手です)。
最近は、欧米から学ぼうという風潮も薄れ、自己植民地化も以前ほどではなくなっているかもしれませんが、私の所へくる生徒さんの多くは相変わらず中学の基本もできていません。
 

火起こし (普通の庭石で)

 投稿者:tommy  投稿日:2009年 9月23日(水)21時35分10秒
  今日は、自宅の庭の石を使って火起こしに成功しました。庭にある10センチくらいの石を拾ってきて、それを錆びついた古い鎌で叩いてみると、結構火花が散るので、一昨日作った自家製のぼろ布を燃やして作った火口(ほくち)を今日も再び作り、再度実験してみました。
 庭石の角ばったところの下に、ぼろ布を燃やして作ったの火口(ほくち)を置き、鎌の背をカーンと叩きつけ、火花を火口に落としました。赤い火種ができるや、見る見るうちに火種は大きくなり、さらにフウっと息を吹きかけると、何と!炎を上げて燃えだしたのです。
 これはTシャツのぼろ布を燃やすとき、まだ完全に燃えきっていないのに、面倒なので途中で密閉消火(消し炭にする)して、火口を作ってしまったのが、逆に功を奏したようです。未燃焼部分が燃えだしたのでわざわざ硫黄を塗った付け木を使う必要がありませんでした。
 この実験の意味するところは、特になにも特別なものがなくても「火は簡単に起こせる」ということです。みなさんも是非試してみてください。tommy
 

Tシャツ片で手作りの火起こし制作

 投稿者:tommy  投稿日:2009年 9月21日(月)20時49分43秒
   この1週間「火起こし」の研究をしてきました。いろいろ失敗しましたが、今日は嬉しい成功を収めました。最初は、杉板にv字型の刻みを付け、竹を錐揉みして頑張ったのですが、煙ひとつ出ませんで、挫折。次は、ペットボトルを使って水レンズを作ろうとしましたが、屈折率にまったく整合性がなく、焦点がぼけてやはり煙ひとつ上がらず、挫折。それで、今日は江戸時代の庶民にまで普及をした火打石方式をやってみました。購入したセットで、一発で成功したのはもちろん、さらに火口(ほくち=火花を受けて赤い種火を醸成する植物繊維の炭化されたもの)を自作することにも、成功しました。
 ボロ布となったいた元Tシャツを切り取って、4重の小片にしてざっと全体が黒くなるように焼いた後、ビンの中に入れ、蓋をして空気を絶ちます。炭化したこのTシャツ片は、火口(ほくち)としてぴったりでした。今日の実験では、なんと十数秒のうちに立派な炎をろうそくに移すことができました。江戸時代でも、庶民たちは1分もかからず火を起こしていたのですね。新しい驚きです。 tommy
 

タジマ氏、オレガンマニエヨ!

 投稿者:tommy  投稿日:2009年 9月18日(金)22時37分35秒
   田島さん、お久ぶりです。日本語表記が出ないようで、心配ですね。でも、あちこちいじくっているとそのうち表示できるようになると思います。私も何回もそのようなことがありました。
 高句麗の数詞のことですが、私ははっきり分かりませんが、何かの本で、高句麗の数詞が日本語の固有数詞(ヒー、フー、ミー、、、)と関係があるのではないか、と書いてあったのを覚えていますが、もう何の本だったか忘れてしまいました。
 ところで日本の固有数詞は倍数法則みたいなものがあって面白いです。 1(fi)→ 2(fu), 3(mi)→6(mu) , 4(yo)→8(ya)  母音が変わると数が倍になります。(5と7と9の倍数は無視されていますが、、、。)1と2、3と6は母音i→uの変化、4と8は陰母音と陽母音の転換かも、なんて空想しているのですが、実際のところ分かりません。tommy
 

kou?kuri no hitotu futatu towa

 投稿者:tajima keiichi  投稿日:2009年 9月16日(水)09時11分17秒
  konnntiha. nihonngo no soft ga kinou sinakunari romaji de kaite imasu.

koukuri no kazu no kazoekata to nihongo no hitotu futatu mittu no kazoekata to nanraka no kanrenga arunodesyouka?
 

「11番バスで帰ります。」

 投稿者:tommy  投稿日:2009年 9月 6日(日)22時47分5秒
   私が日本語ヘルプをしているロシアの青年と今日は「駄洒落」の話題を挟んで学習していた。帰りがけ「では先生は今日、11番バスで帰るのですね。」と言った。

 日本語の学習場になっている地元の小学校から彼は自転車で、私は徒歩で帰るのだが、私が「日本語では昔テクシーという言葉が流行ってね。それは歩いて帰ることなんだ。テクテク歩いて帰るからタクシーに引っかけてテクシーと言ったんだ。」と話したところ、彼は上のような返答をした。

 「なぜ、11番バスなんだい?」
 「ほら、歩いている二本の足の形が、数字の11に似ているでしょう。だからロシアではそう言うのですよ。」

 なるほど、面白い着眼点だ。私の足が確かに11になっているのを見ながら、私は家路についた。tommy
 

「失われた場を探して」について

 投稿者:soba95  投稿日:2009年 8月28日(金)19時03分37秒
  メアリー・ブリントン著「失われた場を探して」(NTT出版)を読んだ。バブル崩壊後の長期不況のなかで、それまであった「高校という場から会社という場への(高校の進路指導部を軸とした)スムーズな場の移行」が崩れ、多くの若者(特に非進学系普通高校)が困難に直面していることが述べられている。60年代~80年代の日本のこの在り方がむしろ特殊であったこと、「今時の若者はちゃんと仕事もしないで」という非難は、スムーズな場の移行が崩れたいま的はずれであること、今の事態はサービス産業化などの社会の変化によるものだから景気が回復しても元の状態に戻ることは難しいこと、サービス産業化は場の移行を支えたシステムを壊しただけでなく、高校生をバイトに引き込んで、高校の場としての意義を一層薄れさせたこと、などの主張に膝を打った。著者は社会学者の分を守ってか、「とにかくどこかの場に帰属することが第一で能力はそれから」という伝統的な日本型社会が崩れて「職能を身につけそれに応じた地位に」という米国型社会へ移行するのを自然現象自然法則であるかのごとく書いているが、80年代以降の米国(あるいは米国的価値観を身につけたエコノミストたち)による意図的な働きかけがなかったのか。あるいは、大きな趨勢としては仕方がないとしても、「場への帰属が第一」という在り方を捨て米国的な社会の在り方をどこまで受け入れるのが日本にとってよいことなのか。こんなことは、米国人の著者に聞くことではなく、日本人が考えることではあるのだが。折しも総選挙。いくら配るという話は出ても、社会の現状と将来にかんする説得力のある議論は聞こえてこない。
ところで、tommyさんの「鉄の文明」、すばらしい文章ですね。詩と科学が化学反応を起こした一瞬に現れた美しさ、とでもいいましょうか。地理歴史や科学についての素養がtommyさんの頭のなかで常人には考えられないような反応を起こしているようですね(ただし、それがこんなに美しい反応となって現れるのは、失礼ながら滅多にないことですよ)。
 

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